田中たかあきの哲学ブログ

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グラビア撮影の難しさ

グラビア撮影が難しい理由

1月9日に仕事のためグラビア撮影をしたのだが、グラビアの撮影は難しいという話をしたい。

グラビアの撮影は、まず時間が足りないことが多い。

例えば12時から18時まで撮影スタジオを借りて撮影したとする。

すると、その6時間は圧倒間に過ぎていく。

本当に、光の速さで過ぎていくのだ。

 

ゆったりと撮影したいなら、2日かけて撮影するか、8時間以上撮影したいところだ。

いずれにせよ、よりお金がかかる。

スタジオの料金もかかるし、モデルさんへのギャラも一層かかる。

 

さらに、撮影前にヘアメイクさんにヘアセットやメイクをしてもらう時間もあるから、基本的に撮影はスピードが命なのである。

 

とはいえ、早く撮らなきゃとパシャパシャやってたら、モデルさんは疲れてしまう。

モデルさんとコミュニケーションを撮りながら、適度に休憩もしてもらう必要がある。

それゆえ、6時間撮影する場合、実質的な撮影時間は5時間くらいになる。

 

この限られた時間の中で、ポーズはどうするか、光の当て方(ライティング)はどうするか、表情はどうするか、アングルはどうするか、など、様々なことを総合的に判断していかなければならない。

 

だから、カメラマンは頭を使う。

それに、ポーズや表情や光やアングルなどを複合的に組み合わせて写真を撮っていく中で、どの写真を撮って、どの写真を撮ってないかを覚えていないといけない。

「あれっ、このポーズってもう撮ったっけ?」となると、ただでさえ時間ないのに余計に時間が無くなる。

 

「このポーズはもう撮ったな。よし、次はこれ!」

とテキパキと進めていかないといけない。

 

モデルさんに自由に動いてもらって写真を撮る場合は、そんなことは別に気にせずどんどん撮ればいいけど。

自分でポーズとかを指定する場合は、記憶力が良いほうがスムーズだ。

 

まあ今回のグラビア撮影は衣装がちょっと普通のとは違って手間のかかる衣装だったのも、時間が無くなった原因ではあるだろう。

水着のような衣装なら、もっとどんどん撮れる。

人物撮影は難しい3つの理由

ポートレート撮影は難しい理由

人を撮影することが難しい理由は、第一に、表情やポーズを工夫する必要があるから。

第二に、モデルさんとコミュニケーションをとり、モデルさんが楽しい気持ちになるように盛り上げる必要があるからだ。

 

私が一番頭を使うのは、ポーズと、モデルさんとのコミュニケーションだ。

どういうポーズにすれば、撮影の目的に合ったよい写真になるかを常に考える必要がある。

 

ポージングは数が多いから大変だ。

それに、微妙な違いにこだわってポーズを考えれば、本当に無限にある。

 

これに、角度や表情や明るさやライティング(光)などを重ねていって、総合的に判断しなければならない。

 

写真撮影の一番難しいことって、総合判断だと私は思うよ。

様々な構成要素を1つにまとめあげることが大変なんだ。

バラバラのものを連関のある1つのシステムにすることが、撮影の本質とも言える。

 

それゆえ、1つの撮影テクニックだけでよい写真をとることは困難だ。

なぜなら、撮影はいろんなものを総合的にまとめあげる芸術だから。

 

ポージングも考えながら、アングルも考え、光や明るさも考え、背景のボケも考え、さらに、モデルさんともコミュニケーションを十分にとり、モデルさんが気分よく撮影できるように配慮しなければならない。

 

なぜモデルさんの気分を上げる必要があるのか?

それは、人物撮影は表情が大切であり、雰囲気が写真に現れるからだ。

 

よい雰囲気は写真を見る人にも伝わると思う。

モデルさんの気分が暗いと、基本的にはよい写真になりにくい。

例外として、文脈によって背景とマッチしたよい写真になることもあるが。

 

モデルさんが楽しく撮影できるようにするためには、カメラマン本人が笑顔でニコニコして、前向きな感じでいる必要がある。

 

ブスっとした顔で暗い感じで「ハイとりまぁーす」ってやってたら、現場の雰囲気はドヨンとする。

だいたい、カメラマンが目の前で暗い顔してたら迷惑だ。

 

だから、撮影現場ではニコニコする。

眉間にシワをよせず、口元をニコッ。

そして、明るくて前向きな言葉を口にする。、

 

これだけで、全然雰囲気が違うと思う。

こういう当たり前で基本的なことを舐めてはいけない。

 

愚直に、真面目に、そして楽しく、大局を見て、柔軟な視点で総合的に考える。

このことを、私はポートレート撮影で常に心がけている。

結婚したら1つの価値観に縛られるから結婚したくない

結婚したら1つの価値観に縛られる

私は結婚したくない。一生独身で生きていこうと決めている。

欅坂46の『不協和音』での平手友梨奈さんのように、「僕は嫌だ!」と心の中で叫んでいる笑

その理由の1つは、多様な観点や価値観から世界を眺めて生きていきたいからだ。

 

というのも、1人の人間と同じ家で仲良く住むためには、相手と価値観を合わせる必要があり、一生ある特定の価値観の中で生きる必要があるからだ。

 

ある特定の1人を選び、その人と結婚すれば、一生その人と仲良くしなければならない。

仲良くするためには、相手と自分の価値観をできるだけ近づけて合わせて、調整する必要がある。

 

もちろん、どう生きるかは人それぞれだし、1つの価値観で生きるのは、もちろん素晴らしいと思う。

しかし私は、多様な観点から世界を捉えたい。

 

「こんな見方があったのか!」

「こんな価値観があったのか!」

そんな発見をどんどんしたい。

 

1つの価値観だけを見ると、他の価値観が見えなくなる。

1つの観点に固執すると、他の観点が隠蔽される。

 

1つの真理は、別の真理を隠蔽するのだ。

 

私は、哲学者でありたい。

哲学者は、精神の自由を持ち、多様な観点から世界を認識する冒険家である。

ニーチェが言った未来の哲学者は、できるだけ多様なパースペクティブを持って世界を認識する。

 

古代ギリシャでは、真理のことをアレーテイアと呼ぶ。

アレーテイアとは、「包みなく現れていること」である。

つまり、全てが露わになっている状態だ。

 

実際、【オイディプス』などのギリシャ悲劇では、1つの真理が別の真理を隠蔽する悲劇が描かれている。

真理によってたぶらかされ、別の真理を取り逃がし滅亡していく悲劇が示されている。

 

何が「善い」か、何が「悪い」のか、という価値基準も、遠近法によってなりたっている。

ある目的を持つ人にとっては善い行為は、別の目的を持つ人にとっては悪い行為であることがある。

何の欲望を持つかによって、何が善いか悪いかの判断は流動的に変わる。

 

1つの文脈のみしか見えないと、他の文脈が隠蔽され、別の意味を見失う。

文脈が変われば、意味も変わる。

1つの目的や1つの文脈に固執して、別の観点を失うことを、福沢諭吉は『文明論之概略』の中で、「惑溺」と呼んでいる。

 

環境に合わせて、大局や状況や流れに合わせて、物事を総合的に判断したい。

多様な観点で流動的に世界を認識したい。

それが、「私」の欲望であり、「私」の目的だ。

 

精神の自由や多様な観点を持ち、未来の哲学者でありたいと私は思う。

そのためには、一生1人の人間だけに心を砕くわけにはいかないのだ。

 

「悪い妻と結婚すれば哲学者になれる」とソクラテスは言った。

これは確かにそうかもしれない。

シラフに戻るからだ。

別の視点や価値観で世界を捉えるチャンスを得られるからだ。

 

明日はどんな新たな発見があるだろうか?

今まで見えなかった新たな遠近法があるだろうか?

可能性は危険でもあり、冒険でもある。

探求者でありたい。