田中たかあきブログ

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人物撮影は難しい3つの理由

ポートレート撮影は難しい理由

人を撮影することが難しい理由は、第一に、表情やポーズを工夫する必要があるから。

第二に、モデルさんとコミュニケーションをとり、モデルさんが楽しい気持ちになるように盛り上げる必要があるからだ。

 

私が一番頭を使うのは、ポーズと、モデルさんとのコミュニケーションだ。

どういうポーズにすれば、撮影の目的に合ったよい写真になるかを常に考える必要がある。

 

ポージングは数が多いから大変だ。

それに、微妙な違いにこだわってポーズを考えれば、本当に無限にある。

 

これに、角度や表情や明るさやライティング(光)などを重ねていって、総合的に判断しなければならない。

 

写真撮影の一番難しいことって、総合判断だと私は思うよ。

様々な構成要素を1つにまとめあげることが大変なんだ。

バラバラのものを連関のある1つのシステムにすることが、撮影の本質とも言える。

 

それゆえ、1つの撮影テクニックだけでよい写真をとることは困難だ。

なぜなら、撮影はいろんなものを総合的にまとめあげる芸術だから。

 

ポージングも考えながら、アングルも考え、光や明るさも考え、背景のボケも考え、さらに、モデルさんともコミュニケーションを十分にとり、モデルさんが気分よく撮影できるように配慮しなければならない。

 

なぜモデルさんの気分を上げる必要があるのか?

それは、人物撮影は表情が大切であり、雰囲気が写真に現れるからだ。

 

よい雰囲気は写真を見る人にも伝わると思う。

モデルさんの気分が暗いと、基本的にはよい写真になりにくい。

例外として、文脈によって背景とマッチしたよい写真になることもあるが。

 

モデルさんが楽しく撮影できるようにするためには、カメラマン本人が笑顔でニコニコして、前向きな感じでいる必要がある。

 

ブスっとした顔で暗い感じで「ハイとりまぁーす」ってやってたら、現場の雰囲気はドヨンとする。

だいたい、カメラマンが目の前で暗い顔してたら迷惑だ。

 

だから、撮影現場ではニコニコする。

眉間にシワをよせず、口元をニコッ。

そして、明るくて前向きな言葉を口にする。、

 

これだけで、全然雰囲気が違うと思う。

こういう当たり前で基本的なことを舐めてはいけない。

 

愚直に、真面目に、そして楽しく、大局を見て、柔軟な視点で総合的に考える。

このことを、私はポートレート撮影で常に心がけている。

結婚したら1つの価値観に縛られるから結婚したくない

結婚したら1つの価値観に縛られる

私は結婚したくない。一生独身で生きていこうと決めている。

欅坂46の『不協和音』での平手友梨奈さんのように、「僕は嫌だ!」と心の中で叫んでいる笑

その理由の1つは、多様な観点や価値観から世界を眺めて生きていきたいからだ。

 

というのも、1人の人間と同じ家で仲良く住むためには、相手と価値観を合わせる必要があり、一生ある特定の価値観の中で生きる必要があるからだ。

 

ある特定の1人を選び、その人と結婚すれば、一生その人と仲良くしなければならない。

仲良くするためには、相手と自分の価値観をできるだけ近づけて合わせて、調整する必要がある。

 

もちろん、どう生きるかは人それぞれだし、1つの価値観で生きるのは、もちろん素晴らしいと思う。

しかし私は、多様な観点から世界を捉えたい。

 

「こんな見方があったのか!」

「こんな価値観があったのか!」

そんな発見をどんどんしたい。

 

1つの価値観だけを見ると、他の価値観が見えなくなる。

1つの観点に固執すると、他の観点が隠蔽される。

 

1つの真理は、別の真理を隠蔽するのだ。

 

私は、哲学者でありたい。

哲学者は、精神の自由を持ち、多様な観点から世界を認識する冒険家である。

ニーチェが言った未来の哲学者は、できるだけ多様なパースペクティブを持って世界を認識する。

 

古代ギリシャでは、真理のことをアレーテイアと呼ぶ。

アレーテイアとは、「包みなく現れていること」である。

つまり、全てが露わになっている状態だ。

 

実際、【オイディプス』などのギリシャ悲劇では、1つの真理が別の真理を隠蔽する悲劇が描かれている。

真理によってたぶらかされ、別の真理を取り逃がし滅亡していく悲劇が示されている。

 

何が「善い」か、何が「悪い」のか、という価値基準も、遠近法によってなりたっている。

ある目的を持つ人にとっては善い行為は、別の目的を持つ人にとっては悪い行為であることがある。

何の欲望を持つかによって、何が善いか悪いかの判断は流動的に変わる。

 

1つの文脈のみしか見えないと、他の文脈が隠蔽され、別の意味を見失う。

文脈が変われば、意味も変わる。

1つの目的や1つの文脈に固執して、別の観点を失うことを、福沢諭吉は『文明論之概略』の中で、「惑溺」と呼んでいる。

 

環境に合わせて、大局や状況や流れに合わせて、物事を総合的に判断したい。

多様な観点で流動的に世界を認識したい。

それが、「私」の欲望であり、「私」の目的だ。

 

精神の自由や多様な観点を持ち、未来の哲学者でありたいと私は思う。

そのためには、一生1人の人間だけに心を砕くわけにはいかないのだ。

 

「悪い妻と結婚すれば哲学者になれる」とソクラテスは言った。

これは確かにそうかもしれない。

シラフに戻るからだ。

別の視点や価値観で世界を捉えるチャンスを得られるからだ。

 

明日はどんな新たな発見があるだろうか?

今まで見えなかった新たな遠近法があるだろうか?

可能性は危険でもあり、冒険でもある。

探求者でありたい。

ブスと美人の基準は人それぞれ違うから、絶望しなくていい

ブスだから死にたいというのは視野がせまい理由

ある人が、ブスなのか美人なのか、という判断は、世界中の人間それぞれが異なる。

だから、「自分はブスだ、鬱だ死にたい」と絶望するのはおかしい。

 

ある人にとってはブスでも、ある人からすれば超美人、ということがありうるのだ。

 

例えば、女子サッカーなでしこジャパンでキャプテンだった澤穂希さんは、ブラジルなど外国でモテモテだった。

実際、澤さんはアメリカ人の男性と付き合っていた。

サッカーのグラウンドから中に入るとき、外国人男性選手たちからジッと熱い視線を向けられていたことは、新聞にとりあげられるくらい有名な話だ。

スポーツ報道関係者の間では、澤穂希さんが外国人からモテるのは有名だったようだ。

 

このように、美人かどうかの判断は、それを見る他人によって変化する。

なぜなら、美人の基準は人それぞれだからだ。

 

なぜ、美人の基準は人それぞれなのか?

その理由は、人によって好みや欲望が違うからだ。

つまり、趣味の違いである。

 

ある人から見ればブスでも、ある人から見れば美人。

その逆もある。

ある人から見れば美人でも、違う人から見ると美人じゃない。

 

美の判断は、遠近法なのだ。

自分の好みに近いものは、美しく見える。

自分の好みから遠いものは、ブスに見える。

 

それゆえ、絶対的な普遍的な美人は存在しない。

なぜなら美の基準に絶対的なものなどないからだ。

絶対的な好みなど、存在しない。

 

だから、美人とブスは相対的である。

これが、美の相対性理論である。

 

人は、つい絶対的な美があると妄信してしまう。

それゆえ「自分はブスだ」と絶望して死にたくなったり、「自分は美人!」とうぬぼれたりする。

 

実際のところは、いかなる観点(パースペクティブ)で見るかによって、美人なのかブスなのかは変わる。

 

それは、ある見方から見れば丸い形に見えるが、別の角度から見れば三角に見えるようなものだ。

見方の違いが存在するがゆえに、美の概念の基準は万人に共通しない。

 

だから、「あなただけの」美が存在するのだ。

他の誰のものでもない。

あなたの美しさだ。

あなたの美はあなたの美だ。

他人には、それをたやすく理解する権利などない。

 

「ブスな自分が嫌い」

もちろんそれも1つの見方であり、1つの趣味である。

しかし、それはあくまで、1つの観点にすぎない。

別の観点が無限に存在するのだ。

 

その可能性を捨てるのか、捨てないのかも、あなたの決断である。

前提を疑い、自由な精神で世界を見渡せば、別の展望が見えてくるだろう。