何が善いか悪いかという判断は、何を基準に価値判断をするかによって、ある程度相対的なものです。
例えば、お金を重視する人と、家族を重視する人とでは、同じ物事に対して、それが善い行為か悪い行為か判断が変わるかもしれません。
では、もし善悪が相対的なものならば、何が善くて何が悪いものなのかについて、人と対話することは、無駄なことなのか。
私は、何が善いもので何が悪いものだと考えるか、ということを人と話しあうことは、とても重要なことだと考えています。
自分は何を善いものだと考えていて、他の人は何を善いものだと考えているか、対話してコミュニケーションすることが、大事だと私は思います。
なぜなら、人と価値観がどのように違っていて、どの程度同じ価値観を持っているかを理解することによって、大きなトラブルや問題を減らすことができるからです。
他人に価値感をできるだけ押し付けないようにすることができます。
言い換えると、政治がうまく機能しやすくなる、ということです。
他人にとっての善いものを理解する
というのも、善悪に関する考えの違いを、他人と対話することは、自分と他人の欲望の違いを知ることだからです。
他人と自分とでは、好みや欲求や趣味や嫌いなものが、どれくらい違って、どれくらい同じなのか、を理解することができます。
他人の欲求や好みをできるだけ理解し、自分の欲求と比較することによって、価値観を押し付けたりすることが少なくなります。
政治とは自分と他人の欲求を調整すること
要するに、政治が上手く機能しやすくなるのです。
なぜなら、政治とは、自分の欲求や好みを、他人の欲求や好みと調整する活動だからです。
相手は自分と違う価値観や欲望を持っている。
そこで、お互いにどの程度、譲り合ったり調整できるか、ということが政治です。
他人に価値感を押し付けないために、善悪についての話し合いは大事なのです。
「田中さん、ちょっと待ってください。「価値観を押し付けてはいけない」ということ自体も、価値観を押し付けてませんか?「価値観をおしつける」という価値感を否定してませんか?」
たしかに、そうかもしれません。
「人に価値観をおしつけてはいけない」ということは、「価値観をおしつけない」という価値観を、他人におしつけているかもしれません。
これはパラドクスですね。
その点は、・・・うまく誤魔化してやるしかありません(笑)
何を善いと考えるか、それは決断
最後に、ちょっと話がずれますが、
何を善いと考えるかは、決断です。
それが本当に自分の欲望かはわからない。
それを本当に、「私」は望んでいるのか、断言はできない。
しかし、「私はこれを欲する」と決断していくしかありません。
自分は何を欲しているのか、自分にとっての「善」とは何なのか、
人はそれを分からない中で、何かを選びとって、信じる必要があります。
「これを私は望む」と信じて、進んでいくしかありません。
それが、「信仰」であり、宗教的な生き方です。
自分にとっての善とは何かを決断することは、信仰でもあるのです。
それゆえ、倫理学とは、宗教的精神、信仰と一体なのです。