こんにちは、田中です。
たいていの場合、生きることは、奪い合いと与えあいでできていると思うんですね。
なぜなら、誰かに何かを与えるには、多くの場合、他から奪ってこないといけないからです。
例えば、魚や野菜を売ろうと思ったら、魚を釣ったり野菜をとらないといけない。
そして、それをお客さんに提供しますよね。
奪い合いと与えあいが同時に行われるわけです。
人間以外のものからは奪っていいけど、人間から奪うのは許されない、という決まりみたいなものがなんとなくある。
そして、そのおかげで私たちは豊かに生きれるわけですから、本当にありがたいことです。
もし、動物や植物や金属をとることが禁止されてたら、私たちが餓死します。
奪わないと生きていけません。
その一方で、人間どうしで詐欺をしたり人をだます商売をしたら非難されます。
仲間どうしでは、助け合うべきという規範があり、このルールのおかげで快適に暮らせます。
ここには、人間と、人間以外のものの区別がある。
この区別は、味方と味方以外(敵)の線引きです。
敵から奪い、味方に与えあう。
これが、政治の本質です。
誰を敵とみなし、誰を味方とみなすか。
それが、政治活動の一部です(ちなみに他者と自分の欲望を調整する活動も政治の一部です)。
カール・シュミットが言うように、政治とは、誰が敵で誰が味方かを線引きすることです。
誰が敵で誰が味方かを区別するマクロ的な政治があります。
そして、仲間や敵同士での、欲望の調整をするという、ミクロ的な政治がある。
プラトンの『国家』の中で、「正義とは何か」という問いにたいして、トラシュマコスという人が、「正義とは敵を害し、友を助けることだ」と言っています。
私は最近、トラシュマコスのこの洞察はすばらしいと気づきました。
『国家』の中では、彼の考えは、ソクラテスによって否定されるのですが、実際のところ人々や生き物がやっていることは、敵を害し友に与えることです。
どの生き物も、仲間どうしでは助け合い、獲物を食べます。
敵と味方を区別し、敵から奪わなければ、私たちは生きることができない。
それは、悪いことではなくて、生きるためにはそれが善いことなんですよね。
もし、他者から奪うことを「悪だ」と定義するなら、私たちは、純粋な善ではないし、純粋な悪でもない。
なぜなら、私たちは、誰かから奪うと同時に、誰かに与えるから。
誰が仲間で、誰が仲間以外か、誰が敵かを選別したあと、敵や仲間以外の他者から奪い、仲間には与えあう。
生きることってそういうことなのかなあと最近思うわけです。
で、そう考えるとですね、「敵を愛しなさい」と言ったイエス・キリストの言葉が、すごく深い洞察だと感じるわけです。
敵なんだけれど、愛す。
奪いあう存在であるにも関わらず、相手を愛するのですから、すごくレベルが高い愛です。
次元が違う愛だと思うのです。
イエスの言う「敵を愛する」ことは、恋人を愛すとか、自分を愛すこととは、根本的に次元が違う愛なのです。
生きることの残酷さ悲しさや割り切れなさ、善悪の共存をすべてを考慮したうえでの、深い洞察に基づいた愛だと思うわけです。
他方、仏教をつくった釈迦は、生きること自体から脱する方向で考えています。
貪らない生き方と言ったほうがいいかもしれません。
とはいえ、釈迦や彼の弟子たちは、民衆から食べ物をもらうことで生きていたので、経済的に自立できていなかったわけですが。
釈迦の場合、苦しみから脱することが目的なので、イエスとは目的や方向性がまったく違いますけどね。
結局、生きることは奪い合いと与えあいを同時に行うことであり、善と悪が混じり合った活動なわけです。
それこそが善く生きることだと定義してもいいわけですが。