人生と人間関係☆田中たかあきブログ

人生と人間関係をテーマに書いていきます

「化粧しないのはマナー違反」とかいう理不尽な考え(笑)

化粧しない自由

ノーメイクはマナー違反、これ女性は言われたある人もいるかもしれない。

だから、失礼にならないように、疲れてるけど化粧しよう・・・とか、めんどくさいけど化粧して、疲れて家に返ってきて化粧を落とす。

 

でもさ、化粧しないのがマナー違反ってことは、女性の素顔をさらすのがマナー違反ってことだよね。

この考え自体が、すごーく女性に失礼な発言だよ。

 

まあ価値観は人それぞれだから、いろんな考えがあっていいとは思うんだ。

だから、「化粧しないとマナー違反」という考え自体を否定はしないし、そういう価値観があってもいいと思う。

 

でも、別に女性がその価値観に合わせる必要はないってことを、私は言いたい。

 

だって、女性が自分の素顔さらしてたらダメって、なんかその人事態を否定してる感じがあって、ものすごい人権侵害な感じがするから。

 

だいたい、男は化粧をしないで素顔でいてもマナー違反にはならなくて、女性は素顔でいたらマナー違反。

なんて理不尽なんだ笑

なにこの女性差別。

 

私が言いたいのは、化粧しない自由があるんだっていうことだ。

まあ現代ならそれが当たり前なんだけど、もし「化粧しないとマナー違反」という規範によって、苦しめられてる女性がいるなら、私は言いたい。

 

化粧しないとマナー違反、という価値観は、1つの価値観にすぎない。

それに従う必要もない。

 

化粧したいならすればいいし、めんどくさいならしなくていいんだ。

 

人から批難されるから、スッピンで会社に行けない、という人もいるかもしれない。

そういうときは、化粧しない勇気。

これがあってもいいかもしれない。

 

化粧しないことは悪い、という思想は、1つの見方であり、1つの価値観にすぎない。

別の多様な価値観が存在するのだ。

 

新しい見方、新しい価値観を持つならば、化粧しないで職場に行くのは、むしろ良いことなんだ。

 

化粧しない自由。

スッピンで会社に行く、なんて楽なんだろう!

化粧が面倒なら、しなくていいんだよ。

結婚したら1つの価値観に縛られるから結婚したくない

結婚したら1つの価値観に縛られる

私は結婚したくない。一生独身で生きていこうと決めている。

欅坂46の『不協和音』での平手友梨奈さんのように、「僕は嫌だ!」と心の中で叫んでいる笑

その理由の1つは、多様な観点や価値観から世界を眺めて生きていきたいからだ。

 

というのも、1人の人間と同じ家で仲良く住むためには、相手と価値観を合わせる必要があり、一生ある特定の価値観の中で生きる必要があるからだ。

 

ある特定の1人を選び、その人と結婚すれば、一生その人と仲良くしなければならない。

仲良くするためには、相手と自分の価値観をできるだけ近づけて合わせて、調整する必要がある。

 

もちろん、どう生きるかは人それぞれだし、1つの価値観で生きるのは、もちろん素晴らしいと思う。

しかし私は、多様な観点から世界を捉えたい。

 

「ほーん、こういう見方もあるんやね」

 

そんな発見をどんどんしたい。

 

1つの価値観だけを見ると、他の価値観が見えなくなる。

1つの観点に固執すると、他の観点が隠蔽される。

 

1つの真理は、別の真理を隠蔽するのだ。

 

私は、哲学者でありたい。

哲学者は、精神の自由を持ち、多様な観点から世界を認識する冒険家である。

ニーチェが言った未来の哲学者は、できるだけ多様なパースペクティブを持って世界を認識する。

 

古代ギリシャでは、真理のことをアレーテイアと呼ぶ。

アレーテイアとは、「包みなく現れていること」である。

つまり、全てが露わになっている状態だ。

 

実際、【オイディプス』などのギリシャ悲劇では、1つの真理が別の真理を隠蔽する悲劇が描かれている。

真理によってたぶらかされ、別の真理を取り逃がし滅亡していく悲劇が示されている。

 

何が「善い」か、何が「悪い」のか、という価値基準も、遠近法によってなりたっている。

ある目的を持つ人にとっては善い行為は、別の目的を持つ人にとっては悪い行為であることがある。

何の欲望を持つかによって、何が善いか悪いかの判断は流動的に変わる。

 

1つの文脈のみしか見えないと、他の文脈が隠蔽され、別の意味を見失う。

文脈が変われば、意味も変わる。

1つの目的や1つの文脈に固執して、別の観点を失うことを、福沢諭吉は『文明論之概略』の中で、「惑溺」と呼んでいる。

 

環境に合わせて、大局や状況や流れに合わせて、物事を総合的に判断したい。

多様な観点で流動的に世界を認識したい。

それが、「私」の欲望であり、「私」の目的だ。

 

精神の自由や多様な観点を持ち、未来の哲学者でありたいと私は思う。

そのためには、一生1人の人間だけに心を砕くわけにはいかないのだ。

 

「悪い妻と結婚すれば哲学者になれる」とソクラテスは言った。

これは確かにそうかもしれない。

シラフに戻るからだ。

別の視点や価値観で世界を捉えるチャンスを得られるからだ。

 

明日はどんな新たな発見があるだろうか?

今まで見えなかった新たな遠近法があるだろうか?

可能性は危険でもあり、冒険でもある。

探求者でありたい。

ブスと美人の基準は人それぞれ違うから、絶望しなくていい

ブスだから死にたいというのは視野がせまい理由

ある人が、ブスなのか美人なのか、という判断は、世界中の人間それぞれが異なる。

だから、「自分はブスだ、鬱だ死にたい」と絶望するのはおかしい。

 

ある人にとってはブスでも、ある人からすれば超美人、ということがありうるのだ。

 

例えば、女子サッカーなでしこジャパンでキャプテンだった澤穂希さんは、ブラジルなど外国でモテモテだった。

実際、澤さんはアメリカ人の男性と付き合っていた。

サッカーのグラウンドから中に入るとき、外国人男性選手たちからジッと熱い視線を向けられていたことは、新聞にとりあげられるくらい有名な話だ。

スポーツ報道関係者の間では、澤穂希さんが外国人からモテるのは有名だったようだ。

 

このように、美人かどうかの判断は、それを見る他人によって変化する。

なぜなら、美人の基準は人それぞれだからだ。

 

なぜ、美人の基準は人それぞれなのか?

その理由は、人によって好みや欲望が違うからだ。

つまり、趣味の違いである。

 

ある人から見ればブスでも、ある人から見れば美人。

その逆もある。

ある人から見れば美人でも、違う人から見ると美人じゃない。

 

美の判断は、遠近法なのだ。

自分の好みに近いものは、美しく見える。

自分の好みから遠いものは、ブスに見える。

 

それゆえ、絶対的な普遍的な美人は存在しない。

なぜなら美の基準に絶対的なものなどないからだ。

絶対的な好みなど、存在しない。

 

だから、美人とブスは相対的である。

これが、美の相対性理論である。

 

人は、つい絶対的な美があると妄信してしまう。

それゆえ「自分はブスだ」と絶望して死にたくなったり、「自分は美人!」とうぬぼれたりする。

 

実際のところは、いかなる観点(パースペクティブ)で見るかによって、美人なのかブスなのかは変わる。

 

それは、ある見方から見れば丸い形に見えるが、別の角度から見れば三角に見えるようなものだ。

見方の違いが存在するがゆえに、美の概念の基準は万人に共通しない。

 

だから、「あなただけの」美が存在するのだ。

他の誰のものでもない。

あなたの美しさだ。

あなたの美はあなたの美だ。

他人には、それをたやすく理解する権利などない。

 

「ブスな自分が嫌い」

もちろんそれも1つの見方であり、1つの趣味である。

しかし、それはあくまで、1つの観点にすぎない。

別の観点が無限に存在するのだ。

 

その可能性を捨てるのか、捨てないのかも、あなたの決断である。

前提を疑い、自由な精神で世界を見渡せば、別の展望が見えてくるだろう。